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大先輩の釣り道具 99/9月号
●絵と文 天野史彦 三十年ほど前までは、大阪の海も川もほんまに汚のうおましたな。神崎川や大和川なんか、くそうて電車で通るだけでえずいたで。工業排水も生活排水も全部流入していた大阪湾は汚れて赤潮だらけ、次々と海水浴場は閉鎖されて釣り行くにも和歌山まで行かなあかん時代やってん。 天王寺発の夜行、懐かしいわ。ゴム長はいて、宅急便などなかったから大きな荷物と竿ケース担いで、かつぎ屋のおばはんに混じって、発車時間の立て札の前に午後から何時間も並ばな乗れんかった。 改札と同時にそれっ!とホーム走って席取り競争やりまんねん。前を走っとるおばんがコケると将棋倒しで次々とこけまんねん。乗客は両手に荷物下げとるさかい、コケるのも簡単や。 それを跨いで踏んづけて行かな四等寝台になりまんね。四等寝台?つーのは座席の下に新聞紙敷いて、通路に首出して寝るんですわ。少々狭いけど、娘さんの股ぐらをもろに覗けるおまけもおまして若い娘が乗ってると大概その下に先客が新聞紙敷いてましたな。 夜行列車は冷房もおまへん、窓を全開しても車内は魚くそうて、汗くそうて、おまけによう揺れるので熟睡なんか出来まっかいな、行くだけでクタクタでしたな。 わたしゃ学校出たての新入社員、土曜も出勤、休みなんか日曜だけやったから両夜行日帰りが常識で、体力がないと出来まへんな。 道具類も今のように軽量でコンパクトには出来てまへん。ポリバケツを振り分けにしたり、竹篭を紐で縛ったかつぎ屋スタイルで、竿持ってないと釣り師には見えなかったもんですわ。 しかし汽車賃は安いし、釣り宿なんか漁師の自宅やったから、何か故郷へ帰るようでしたな。渡船がで焼玉エンジンでポンポンとのんびり走って、昼飯も磯まで配達してくれてたんやけど、ああいう素朴な親切さはいつの間にかのうなったなあ。 河川の水が綺麗になり、魚が戻ってきて、交通事情もようなってほんまに釣りが近場で楽に出来るようになって、嬉しいですわ。 その反面、釣人は増えてなかなか釣れへんようになってもうた。ま、それもしゃあないか。その当時、天王寺駅を元気に走っとった釣りの先輩は四等寝台の常連でして、Hな話をさせるとなかなか聞かせる天才で、周囲の乗客まで巻き込んで笑わせる人やってんけど、先日天寿を全うしてお亡くなりになり、さぞ残された奥様も寂しかろうと電話した所、「お父さんの釣り道具、よおけあって家の中整理でけしまへんね、持ってってくれない」元気そうな声で言いまんね。 釣り道具と聞いたらほっとけませんな、すぐ車飛ばしましてん。 「全部粗大ゴミで出そうと思ってんけど、あの人が大事にしてたものやから捨てるのもいけずやし」 「そらそや、捨てたら化けて出まっせ、釣りが好きやったから」 「ほんま、子供が生まれた日も、釣りに行ってたんでっせ」 見せてもろた竿はまるで物干し竿、リールはでかくて重いこと、今の釣りでは見かけんどえりゃあ時代物ばかりがごろごろですわ。 当時は、こんなごっつい釣具を担いで走り回り、磯に飛び移って一日竿を抱えて平気やってんな。と、お元気やった先輩の面影が浮かんで、あのいがらっぼい声まで聞こえて来ましてな、ちょっとうるるん気分になりましてん。 「高い竿なんや言うてましたけどそんなにええのんがありますの」 「全部ええですけどな、これかついで釣りしとる姿をなんや思い出して、つらいですわ」「そおお、わたしにゃ判らないんでねえ、ええもんですの」 奥さんはさめた声で竿を並べて言いましてん。 「なんぼぐらいになりまっしゃろ」 (茨木市在住) |